祖母との最期の別れ
10月1日のAM1:30頃に
祖母が老衰の末に91歳で天へ旅立った。
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先月中旬頃に施設から病院へ緊急搬送された。
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会いたい人には会える時に。
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本当は敬老の日に
施設へ会いに行こうと思っていたけれど延期となり
翌週の9月23日に両親と病院へ行くことになった。
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緊急搬送された時に医師からの話では
「もう数日の命かもしれません。今は気丈な精神力で生きている状態です。」と
母から聞いた。
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僕が病院に行く日まで
母は祖母に会う度に「23日に拓真が来るからね!」と
励まし続けてくれたそうだ。
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23日は祖母に会うことが出来た。
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病室へ入ると祖母は
少し身体が小さくなっていて
酸素マスクを付けて横になっていた。
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母が祖母に「来たよ。誰だか分かる?」と
聞くと「拓ちゃん」と
苦しそうにしながらも少し笑みが溢れていた。
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祖母は「椅子があるから出して座りな」と
自分が苦しい中でも僕を気遣ってくれた。
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母が昨年の敬老の日に
僕と祖母と3人で食事に行った時の写真を
スマホで見せて「この写真覚えてる?」と聞くと
「嫌だぁ。別人みたいねぇ。」と祖母は答えた。
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母は「美味しかったね!また元気になったら一緒に行こうね!」と
祖母を何度も何度も励ましていた。
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その会話が胸を熱くさせた。
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いつもならば【祖母と母】の何気ない会話だけれども
その日は【母と娘】という関係の方が色濃く感じて
胸の中にある感情を必死に堪えていた。
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祖母は歌うことが大好きで
昔はカラオケ教室に通っていた。
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僕が幼少期に祖母が
坂本冬美さんの「夜桜お七」を
ラジカセで流しながら練習していたのを
真似して一緒に歌っていたこともあった。
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振り返れば
僕が歌うのが好きになったのは
祖母の影響だったと思っている。
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母はスマホから美空ひばりさんの
「川の流れのように」を流して
それを祖母の左耳に近づけた。
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祖母はゆっくりと頷きながら手でリズムを取っていた。
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歌を聞いている祖母の表情はどこか優しげだった。
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僕はその時に改めて音楽の力を感じた。
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面会時間は30分と限られていたが
とても大事な時間を過ごせた。
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帰りに両親と晩御飯を食べて別れ際に
「今日はありがとう。こればかりは《順番》だからね。」と
母の受け入れる覚悟を強く感じた。
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会えるならばもう一度と
10月4日に祖母に会い行く予定だったが
それは叶わず10月1日に訃報が届いた。
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祖母は会う度に
「拓ちゃんが生まれた日はね」と
嬉しそうに話をしてくれた。
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噺家さんのような流暢な口調で
何度聞いたのかさえも分からない。
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初孫ということもあったのか
話している時の表情や声色から
僕が生まれたことを
本当に心の底から喜んでくれたんだなと
物凄く伝わってきた。
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生まれてから暫くは母の実家である
祖父母の家で数週間お世話になったらしい。
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尚のこと愛着もあったのかもしれない。
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それなりに年齢を重ねてきて
「死」に対しての受け入れ方も変わってきた。
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自分が40歳に近い年齢にもなれば
そういう別れとの距離も近くなり
避けることは出来ない。
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母の「順番だからね」という言葉が
未だ頭の中で残っている。
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むしろ僕だってどうなるか分からない。
明日がある保証もない。
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夢との決着も付けなければならない。
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【会いたい人には会える時に】
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後悔はしたくないから。
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9月23日に祖母に会えて
本当に良かったと思っている。
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最後に交わした握手の感触。
別れ際にドアを閉めるまで
弱々しくも手を振ってくれた表情。
今でも鮮明に覚えている。
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10月5日に告別式を終えて最期の別れをしてきた。
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感謝が尽きることはない。
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これまでたくさんの愛情を注いでくれて
本当にありがとう。
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